《茨城県央ぶらりと見て歩記》59基の登り窯跡出土 小幡北山埴輪製作遺跡(茨城町) 新技術の「土師部」集う

茨城新聞
2021年4月13日

国道6号沿い。入り口で大きなソメイヨシノが出迎える。一見、谷津と台地から成る芝生が敷かれた公園で、春には八重桜や菜の花も咲き、花見も楽しめる。順路に従って歩き始める。

1992年1月に国指定文化財(史跡)となった小幡北山埴輪(はにわ)製作遺跡(茨城県茨城町小幡)は、俗に「カベット山」(壁土山)と称され、良質の粘土の取れる場所として知られていた。

県教委によると、53(昭和28)年、開墾作業中に人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが出土し、埴輪製作遺跡として知られるようになったものの、調査は行われず、遺跡の一部が耕地化された。最初の発見から34年後の87年5月に、西へ250メートルの地点から埴輪製作の窯跡が見つかったことを受け、本格的な調査が実施された。

大規模な窯群

出土した遺物は、円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、人物埴輪、馬の埴輪、武人埴輪、男子埴輪頭部、笛を持つ人物埴輪の一部、土師(はじ)器坏(つき)、高坏、鉢、甑(こしき)などで、6世紀中ごろ以降から7世紀前半、古墳時代の遺跡と考えられている。

茨城町史によると、埴輪窯跡は南西側の台地から29基、南東側の台地から28基、南側台地から2基の合計59基が見つかり、「全国でも大規模な埴輪窯群が存在していた」としている。

登り窯は台地の斜面を掘り込み、かまぼこ状の天井をつけた全長約6メートル、幅約1・2メートルの大きさ。窯跡のたき口からはかき出した灰や失敗した埴輪も多く見つかった。一度に使われた窯は2、3基。1基の窯で約20の埴輪を焼いたとみられる。

台地の斜面を切り込むように造られた登り窯の複製。一度に2、3基。1基で約20の埴輪を焼いたとされる=茨城町小幡

順路に従うと、台地の傾斜に沿って、造られた登り窯跡に植栽が施され、窯の規模と形状が分かる。また、複製された登り窯もある。

 ▼古墳築造に必要

工房跡と考えられる遺構も8件確認された。窯跡からやや離れた場所にあり、日常に使われた土器などが見つかっていないことから、工房は定住する住居とは一緒ではなかったとされる。

どんな人たちが埴輪を作っていたのか。同町史では「以前から住んでいた人々ではなく、新たな技術を持って住み始めた人々」としている。「土師部(べ)」といわれる工人で、朝廷から比較的保護されていた身分だったという。

古墳を築造するのに、埋葬に必要な埴輪を作るため、土師部たちが粘土を採取しやすく仕事がしやすい環境を、有力者が整えた場所とみられる。順路の終わりには、前方後円墳の複製とともに埴輪が置かれている。

小幡の埴輪
茨城町史によると、古墳の墳頂部に置く祭祀(さいし)として作られた。円筒埴輪、形象埴輪に分けられる。形象埴輪のうち人物埴輪では、笑っている人、泣いている人、頭に壺(つぼ)を乗せている人、子どもに乳を与える母親、踊る人など、東日本特有ののどかな表現をしている。

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