《県央ぶらりと見て歩記》別荘跡に立派な黒松 激戦を伝える弾痕 「元治甲子の乱」の史跡(ひたちなか)

茨城新聞
2020年6月11日

幕末に水戸藩であった元治甲子(げんじかっし)の乱(1864年)に関係する史跡をたどり、ひたちなか市那珂湊地区を歩いた。天狗党と諸生党、幕府派遣の追討軍などが激戦を繰り広げた舞台を想像した。

ひたちなか海浜鉄道の那珂湊駅で電動レンタサイクルを千円で借りた。スポーツタイプの自転車で「みなとちゃんレンタサイクル」の名称が付いている。駅で配布されている「まちなか漫遊MAP」を手に入れ、コースを思案した。

▼反射炉と☆(夕の下に寅)賓閣

まずは県指定史跡の反射炉に向かった。幕末の異国船対策として大砲鋳造を目的に、徳川斉昭が57年に建設した。金属の溶解炉で20門を鋳造し幕府に献上した。しかし、元治甲子の乱で破壊されてしまった。

現在ある模型は1937年に復元された。かなりの高さがあり、カメラで全景を捉えるのに周囲を歩き回った。

由緒ある華蔵院をお参りした後、坂道を上り☆(夕の下に寅)賓閣(いひんかく)跡を目指す。光圀が建てた別荘で、1698年にできた。ここも残念ながら「乱」により焼失した。現在残るのは立派な黒松だ。光圀が須磨明石から取り寄せたとされる。訪れた時は業者が丁寧に手入れしていた。太平洋がよく見え気持ちが和む。家族連れが弁当を食べており、平和なムードが広がる。

商店街をゆっくり走ると、四郎介稲荷神社を見つけた。2月に市指定有形文化財になったばかり。龍や狐の彫刻が特徴だ。

▼戦死者を埋葬

那珂湊駅近くで線路を渡り「館山」と呼ばれる場所に向かう。七つの寺が高台に密集している。光圀の寺社整理でここに集まったという。正徳寺の門には弾痕とされる跡があり、戦闘の激しさを伝えている。

ここから北上し市立那珂湊中を横目に見て、首塚を目指した。迷いそうになるが道路脇にあるのを発見した。車だったら見逃していただろう。戦死者の首を集めて埋葬した場所だ。

元治甲子の乱で犠牲になった人を葬る首塚=ひたちなか市鶴代

「海と踏切と列車」を撮影できる殿山駅近くのポイントに向かった。挑戦してみたが、踏切待ちの車が並び、思ったような構図にならなかった。既に夕刻が迫っており条件も悪い。「撮影は次の機会にしよう」と思い直しペダルをこいだ。

最後の訪問地は水戸八景の一つである水門帰帆。看板を頼りに行くと市役所那珂湊支所の裏手にあった。こちらも高台で眼下に太平洋を望む気持ちのよい場所だった。那珂湊駅まで戻ると約3時間の散策だった。

★元治甲子の乱

天狗党に対し、諸生党、幕府追討軍、諸藩連合軍が那珂湊中心に争った。乱の被害で那珂湊の古い建築物の大半が失われた。敗北した天狗党は大子町に集結し、京都にいた慶喜を頼って西を目指した。福井県敦賀市で降伏し処刑された。

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