支えた庭田家、思い継承 田中正造終焉の家(佐野・市指定)
足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走し、波乱の生涯を送った田中正造(たなかしょうぞう)。その人生は、正造の活動に協力し病床を支えた庭田清四郎(にわたせいしろう)宅で幕を下ろした。家は現在も庭田家の人が暮らし続けている。
1913年8月2日、活動資金の調達に従事していた正造は谷中村(現渡良瀬遊水地)へ帰る途中、鉱毒地調査の協力者であった庭田宅で病に倒れた。妻カツや家人らの献身的な介抱を受けたものの、34日間病床に伏した末、同年9月4日に亡くなった。家には連日大勢の見舞客が訪れ、庭田家の人々は夏の農作業もできず、非常食として保存していたみそやしょうゆなど3年分を消費したといわれている。
正造が亡くなった翌年、家は河川の改修工事で北に約200メートル移築したが、最期を迎えた8畳間は当時の姿を残し、庭田家が大切に継承している。部屋には、正造直筆とされる掛け軸が並び、訪問者を出迎える。
清四郎のひ孫で訪問者に熱心に解説をしていた4代目当主庭田隆次(にわたりゅうじ)さんが3年前に亡くなり、現在は妻ハナ子(こ)さん(85)が管理している。ハナ子さんは「詳しい解説は難しいが、希望する人に資料を渡している。主人が大切にしていたものをこれからも守っていく」と思いを語った。
【メモ】佐野市下羽田町19の2。2013年、市史跡に指定。個人宅のため、来訪の際は要連絡。(問)庭田さん0283・23・1439。
■ちょっと寄り道 約450メートル先に、足尾銅山鉱業停止請願活動の拠点だった雲龍寺(群馬県館林市下早川田町)がある。
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