古宇田親子、医の足跡 茨城・かすみがうらで企画展 軍医で活躍/性病研究尽力

茨城新聞
2022年2月15日

茨城県かすみがうら市出身で、明治から大正期に2代にわたって医師を務めた古宇田信近、傚太郎(こうたろう)親子を紹介する企画展が、同市坂の市歴史博物館で開かれている。軍医として活躍した父と、当時まん延していた性感染症の治療に尽力した息子の足跡を、多様な資料からひもとく。

信近は1849(嘉永2)年生まれ。幼くして下土田村(かすみがうら市)で医業を営む古宇田家に養子に入った。幕末の志筑領主の侍医として活躍した金子寿仙の下で2年間修業し、寿静の号を持つ。

東京で医学を志し、戦争に従軍する当時の軍医制度の最初期で学び、軍医となって力を発揮した。西南戦争、日清戦争に従事した。同戦争終結時の下関条約の際は、青年に襲われ負傷した清の全権大使、李鴻章の治療に携わった。97(明治30)年に帰郷し医院を開業し、54歳で死去した。

傚太郎は、83(明治16)年に生まれ、旧制水戸中学校で5年間学び、1908年に東京大医学部を卒業した。北里柴三郎の伝染病研究所で細菌学を学んだ。東京・銀座で開業し、伝染病の専門家となった。日本性病予防協会(現在の公益財団法人「性の健康医学財団」)の梅毒反応の血清検査を行うなど、性感染症の研究にも励んだ。

展示するのは、古宇田家の子孫から寄贈された膨大な資料の一部。信近が軍医を学んだときの資料や写真、李鴻章を治療した際の詳しい日誌、清国から授かった勲章などを並べた。傚太郎が学んだ大学の写真、恩師から届いた貴重な手紙、病院の薬袋、性病学会誌が目を引く。

同館の大久保隆史学芸員は「下関条約への関わりや性病研究といった当時の医学界では名が知られていた人物。歴史に名を残した地元の偉人を知ってほしい」と話した。

企画展「医聖二代 古宇田信近・傚太郎」は3月21日まで。同館(電)029(896)0017へ。