《茨城県央ぶらりと見て歩記》敵迎え撃つ武者返し 小幡城跡(茨城町) 身投げた伝説の姫

茨城新聞
2021年3月3日

スギやヒノキ、竹などが生い茂る森の中。日中でも薄暗い、うっそうとした小高い本丸の片隅に落城の際、姫が金の鳥を抱いて身を投げたという言い伝えが残る井戸の跡がある。枯れ葉で覆われているが、ほとんど埋まってしまっているのだろう。台地状の本丸だから、相当な深さだったのだろう。

散策に心地良いとはいえないが、城跡を歩くなら冬枯れした季節がいい。緑の枝葉がなくなって見通しが良くなり、堀や土塁など地形が把握しやすい。城跡は茨城県の緑地環境保全地域にもなっている。

1970(昭和45)年1月に茨城町指定史跡となった「小幡城跡」は、県内最大級の中世城郭。しかし、誰がいつ築いた城なのかは不明だ。東関東自動車道建設に伴い、2005年から翌年にかけ実施された発掘調査では、15世紀代の築城と推定された。

▼いつ、誰が?

茨城町史では、「1417(応永24)年、大掾詮幹の三男義幹によって築城され、以来義幹の子孫は小幡氏を名乗ってこの城主になった、と伝えられている」という言い伝えを紹介している。一方で、大掾氏の当主に詮幹という名の者はいないことや、義幹の存在も証明することはできない、と指摘している。小幡城が史料に登場するのは、鹿島神宮文書で、永禄(1558~70年)の後半ごろ、「おはたのようかい」(小幡の要害)とあるのが最初だという。

ヒノキの古木が構える城跡に入ると、巨大な空堀が出迎える。五つの曲輪(くるわ)などで構成される城は外郭部まで含めれば東西500メートル、南北約450メートルに達する。

▼堀底におびき寄せ

その大きさ以上に特異なのは、最大で深さ10メートル、最も広い場所で幅20メートルにも及ぶ空堀だ。入り口から進めば必ず壁面に突き当たり、防御用の曲輪から石を落とされたり、矢を放たれたりしたら、ひとたまりもなかっただろうと、想像できる。「堀底道」は自然に場外へと敵を追いやる構造になっている。高台にあり、大きく「く」の字状となった「変形武者返し」は、少ない城兵で堀を進む敵を迎え撃つ役割がある。

巨大な空堀に囲まれ、侵入者を狙い撃つ構造を持つ=茨城町小幡

同町史では、構造について「防御の基本的発想が、敵を掘底におびき寄せ、高い曲輪から狙い撃ちする、という点にある」と紹介。安土・桃山時代の1585(天正13)年ごろの文書に、大塚弥三郎と小幡孫三郎の2人が江戸氏から城の守りを命じられている。90年12月、佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城を奪われ、小幡城も落城したとされる。

身を投げたという伝説の姫も不明だ。

小幡氏
茨城町史によると、1536(天文5)年に「小幡道増」という武士の名が小堤光明寺の棟札にある。さらに天正時代、城の守りに小幡孫二郎が命じられたが、小幡が地名として登場するのは戦国期になってから。古くから小幡を名乗る武士がいた可能性は低い、としている。

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