侍医・金子寿仙しのぶ 江戸時代後期に活躍 地域医療発展に貢献 かすみがうらで展覧会
かすみがうら市の旧志筑領で江戸時代後期に活躍した医師、金子寿仙(1803~73年)を紹介する展覧会が、同市坂の市歴史博物館で開かれている。当時の外科の第一人者、華岡青洲の医塾で学び、志筑領を治めた本堂家の侍医として領民から慕われた。金子家資料など展示物約30点を中心に、寿仙の人物像や近代医学の歴史をひもとく。
寿仙は高倉村(現かすみがうら市)に生まれ、青年期に医学を志した。華岡青洲の医塾がある和歌山で学んだほか、京都で産科の技術も得て本堂家の侍医になった。
痘疹や種痘も学んだが、産科を得意とし、母子の命を尊び領内から「子安菩薩(ぼさつ)」と呼ばれた。門弟も多く、地域医療の広がりに貢献した。
養子の寿活も医師になり、天然痘やコレラの治療法を習得した。医学のほかに詩文に長じ詩人としても知られる。
展覧会は金子家の子孫から近年寄贈を受けた約350点の資料を基にした。展示では、寿仙が和歌山に行く途中、1828(文政11)年3月、歴史家の頼山陽を京都に訪ねた際に贈られた書「追琢堂(ついたくどう)」を初公開した。書の意味は切磋琢磨(せっさたくま)することで、寿仙はこの後自らの雅号を追琢堂とし、生涯大切にした。
寿仙の師の華岡青洲については、口述筆記や華岡門人の記録、肖像画などを並べた。寿活の漢詩や墓標の拓本も見ることができる。
志筑に戻った寿仙が立ちあった心中事件の検視についての古文書も展示した。水戸街道にある稲吉宿で、役人と旅籠(はたご)の女中が心中。寿仙は検視をしたが、心中だと武家への処罰があるため、男女が互いにおとがめのない「自害」をしたという報告をしたことが資料から読み取れる。
同館の千葉隆司館長は「寿仙、寿活親子が関わった近代の医学史を通じ、仁としての医療の道に関心を持つきっかけになれば」と話した。会期は3月14日まで。