《巨大要塞・金山城 妙印尼の物語(5)》常陸国牛久 現代より重い「家守る」

上毛新聞
2016年5月2日

茨城県牛久市のJR常磐線・牛久駅から南西に約2キロ。牛久沼にほど近い高台の古い住宅街の中に妙印尼が眠る「得月院」はある。城内の一角だったとされるが、その名残は100メートルほど手前に「大手門跡」の小さな碑が残るのみ。
1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原攻めの後、由良家は金山城(廃城)を取り戻すことはできなかったが、家名は存続し常陸国(ひたちのくに)牛久に移った。妙印尼は4年後、そこで静かに生涯を閉じた。81歳だったとされる。
「牛久は全く知らない土地ではなく、もともと由良家と縁のある知行があり、幾つかの候補の中から牛久を選んだらしい」と日本考古学協会会員で、金山城の研究で知られる宮田毅さん(63)=太田市教委元文化財課長。
大中黒の家紋がある得月院の本堂と、推定樹齢500年という高さ約20メートルのカヤの大木の間を抜け、河童(かっぱ)の絵で知られる日本画家、小川芋銭(うせん)の墓を過ぎると歳月を感じさせる五輪塔が見えてくる。山主が立てた脇の案内板には「当院開基妙印尼の墓碑」と説明が記されてあった。
「家を守ることの意味、特に血筋は、武力や財力では得られないものと大切にされてきた。戦国時代のそういう考え方は、現代の感覚よりはるかに重いものだった」。妙印尼の足跡をたどる時、必ず出合う「家」というキーワードを宮田さんはこう推察する。
昨年、21年ぶりに復刊された「妙印尼輝子 太田金山城物語」(浜野春保著)では妙印尼をこう紹介している。「前田利家が驚き、豊臣秀吉が称(たた)えた戦国時代最強の女丈夫(じょじょうふ)(女傑)が太田金山城にいた」。

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