《見て歩記》「商人町」の風情残す 農業用水求め開削 水戸・備前堀

茨城新聞
2020年4月26日

 水戸市下市地区にある商店街「ハミングロード513」に車を止め、備前堀を訪ねた。大谷石舗装や石灯籠、シダレヤナギなどで歴史的空間を演出している。江戸時代から続く商人町の風情を残している。
 
 伊奈備前守忠次(ただつぐ)(1550~1610年)が晩年に掘った用水だ。忠次は治水・利水工事、新田開発、検地、街道宿駅の整備などに力を入れた。徳川家の関東支配、江戸幕府の基盤づくりに貢献した人物だ。
 
 伊奈忠次にはたくさんの逸話が残る。本能寺の変の後、徳川家康とともに堺から「伊賀越え」をして、三河に向かった。関ケ原の戦いでは、荷駄奉行として兵糧や武器弾薬の輸送に当たった。家康直轄地を管理する関東代官頭を務めた。
 
 ▼水戸街道
 
 備前堀は常澄地区などの農業用水の目的と千波湖氾濫を防ぐ治水対策のため開削された。水戸藩初期時代の代表的なまちづくり事業の一つだ。
 
 伊奈忠次の銅像が立つ道明橋(どうめいばし)を観察すると由来を知らせる看板があった。「酒造業者の道明作兵衛が田畑に往来するため私的に架けた橋であり、道明橋と呼ばれるようになった。和歌山から水戸に移り住み、酒造業で富豪になった」と記されている。下市地区は江戸時代から商業の街だった。
 
 上流側に銷魂(たまげ)橋(ばし)がある。日本橋に至る水戸街道の起点であり、終点だった。城下町と周辺部を分ける地点だった。旅人の見送り、出迎えをした場所だった。
 
 下市地区には旧町名の由来を記した旧町名表示柱がたくさんある。檜物町(ひものちょう)は桶工、指し物職などの木工職人が住んでいた。江戸町(えどちょう)は魚類を荷造りして江戸に出荷していたという。
 
 下流側にあるのが三又橋(みつまたばし)。かつてはこの地点で流れが二つに分岐していた。水門の開閉をして、水量を調節した。現在は1本のみが流れている。
 
 ▼横綱常陸山
 
 常陸山橋にはお相撲さんがデザインされたイラストがある。「続城東歴史散歩」(坂田暁風さん著)によると、横綱常陸山が老朽化した橋を大金を出してコンクリートの橋にしたと伝わっている。ゆっくり1周して1時間だった。

力士のイラストが描かれている常陸山橋


 
 後日、備前堀の最終地点が気になり、涸沼川の護岸に向かった。草刈り中の農業男性(83)は「子どものころはヨシが生えフナが捕れた」と昔の様子を語った。「去年の台風19号の時は、この辺りは膝の高さまで水が来た。稲わらが大量に流れて大変だった」と振り返っていた。
 
 ★伊奈家
 関東郡代を200年間世襲し、大規模工事を指揮した。利根川東遷事業や福岡堰(つくばみらい市)は忠次の次男である忠治(ただはる)が手掛けた。忠次は埼玉県伊奈町に陣屋を置いていた。現在の町名の由来にもなった。同町では忠次のPR映像やイベントを行って街おこしを推進している。

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