《県央ぶらりと見て歩記》通船税増収狙い運河 勘十郎堀跡(茨城町) 工事旗振り役、獄死
のどかな田園風景を抜けると、森の中からひっそりと姿を見せる。浅瀬の清水が新緑の緑をまぶしく映す。
水戸藩が宝永年間(1704~11年)に手掛けた藩政改革の一つとして掘削した運河が勘十郎堀だ。全国で開発事業を手掛けた浪人、松波勘十郎を登用、大工事の旗振り役となったことから、名付けられた。
水戸藩は御三家の一つとして、将軍を支える最も近い位置にいた。参勤交代をせず、小石川の藩邸に常住する定府が義務付けられていた。藩内だけでなく、多数の家臣が江戸に常駐することで、諸経費がかさんだ。また、2代藩主・光圀により始められた大日本史編さんも藩の財政を圧迫していたとされる。
3代藩主・綱條(つなえだ)が就いたときには財政の悪化は深刻さを増し、領内の町人や富農から御用金を徴収する一方、藩政改革により危機を乗り切ろうとしていた。
▼海運発達の影で
茨城町史などによると、当時、東北地方からの荷物は、那珂湊(ひたちなか市)から涸沼川をさかのぼり、涸沼沿岸の海老沢、網掛から陸路を使い巴川の下吉影(小美玉市)や園部川の小川(同市)に送られた。そして、北浦、霞ケ浦を舟で下って潮来(潮来市)に運ばれ、さらに利根川をさかのぼり、関宿(千葉県野田市)から江戸川を南下し、江戸に運ばれていた。
しかし、いったん陸路を使う不便さや、東廻(まわ)り海運の発達で船が銚子から利根川へ入るか、直接、江戸湾に入るようになり、那珂湊経由の荷物は減っていった。
このため、松波は涸沼の海老沢河岸から紅葉村(鉾田市)の巴川まで約10キロの「紅葉運河」と、大貫(大洗町)の海岸から涸沼川へ通じる約1キロの「大貫運河」を掘削、これによって江戸向けの荷物が藩内を通るようにし、津役銭(つやくせん)(通船税)の増収と藩内の流通経済の活性化を計画した。
▼江戸で捕縛
紅葉運河は宝永4(1707)年の7月に始まり、11月には竣工(しゅんこう)と藩に報告された。しかし、区間のほとんどが砂地だったため、程なく埋まってしまった箇所が多く、工事は続けられた。
大貫運河も同年秋に着工し、11月には堀を抜くことに成功したが、暮れには砂で埋まり、翌年の正月早々から復旧工事が始まったという。
掘削に駆り出されたのは農民。その数は延べ約130万人に及んだ。年貢増に追い打ちをかけるように、賃金も不払いとなった。農民たちは改革の中止と松波らの罷免を一揆により直訴。藩はこれを受け入れざるを得なかった。松波はいったん追放されるが、江戸で捕縛され、水戸赤沼の獄で獄死した。
★松波勘十郎(まつなみ・かんじゅうろう)
茨城町史などによると、1638(寛永15)年ごろに美濃国で生まれ、三河国の5村の検地役人を務め、財政立て直しに尽力した。その後、下総高岡藩、上総大多喜藩の財政再建に成功したことが認められ、大和郡山藩、備後三好藩、摂津高槻藩、奥州棚倉藩などの財政立て直しを請け負った。
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