新選組・伊東甲子太郎の生家絵図発見 出身地・かすみがうらで 武家屋敷に父の名 足跡を紹介

茨城新聞
2020年10月15日

中志筑村(かすみがうら市)の出身で幕末の新選組参謀だった伊東甲子太郎(かしたろう)(1835~67年)の生家が分かる幕末時代の絵図が発見されたことが12日、分かった。同市坂の市歴史博物館に寄贈された資料の中から確認された。武家屋敷の配置を墨で描いた絵図で、甲子太郎の生家が分かる資料は初めてという。同館は「当時の町の様子も分かる貴重な資料。甲子太郎の研究が進む」と期待している。

発見されたのは、縦33センチ、横56センチの和紙に墨で描かれた絵図の断片。志筑領下の武家屋敷の配置図が細かく描かれ、敷地や建物が略して描かれている。それぞれの屋敷には家臣たちの名前が書かれ、城跡の南側に甲子太郎の父、鈴木三四郎の名前が書かれている。

絵図に書かれた伊東甲子太郎の父、鈴木三四郎の名前(中央)

周囲の家臣の名前を年代が分かる別の地図や資料で調べたところ、今回の絵図に合致するものがあった。その結果、絵図は文政11(1828)年から天保5(34)~6年ごろまでに描かれたと推測された。

甲子太郎は天保6年に志筑領で生まれた。父は天保8年以降、家老との確執などで領外に出ざるを得なくなったため、甲子太郎は絵図の屋敷で生まれ2歳ごろまでいたとみられる。

父は「郷目付」と呼ばれる下級-中級の武士だった。志筑領を出た後は現在の石岡市高浜で村塾を開いていた。

甲子太郎は13歳から水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出た後、64年、幕末の京都で治安警護に当たった武士集団、新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、幕府と敵対することになる長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす局長の近藤勇との間で確執が生まれ、離隊して「御陵衛士」として独立、67年、新選組隊士に暗殺された。

絵図は今年7月、志筑領家臣だった同市の市ノ澤家から同館に寄贈された文書の中に含まれていた。同館の千葉隆司館長は「絵図の状態は良く、一級資料と言える。生家が分かったことで甲子太郎が武家の出身であることも裏付けられた。甲子太郎研究が前進する」と話した。同館は甲子太郎の足跡を紹介する展示を11月23日まで開き、絵図を展示する予定。

伊東甲子太郎
中志筑村(現在のかすみがうら市)の鈴木家に生まれ、水戸藩で剣術や水戸学を学んだ後、江戸に出て北辰一刀流の伊東道場主の娘と結婚し、伊東姓になった。弟の鈴木三木三郎と共に「甲子」のえとの年に新選組に入隊し、甲子太郎と名乗った。勤王思想を持つリーダーとして参謀となり活躍。佐幕攘夷(じょうい)の近藤勇局長らと意見を異にし、「御陵衛士」を結成し15人で離脱、後に「高台寺党」と呼ばれた。1867年11月、近藤との酒席に呼び出され、帰り道に新選組隊士によって殺害された。

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