《井伊氏と高崎安中(10)》碓氷関所 街道合流 守りの要
中山道で関東への玄関口となった安中市松井田町横川の碓氷関所は1623年、2代将軍徳川秀忠の上洛に合わせて本格整備、体制が確立された。徳川家関東入封(1590年)により、西の境界線の松井田地区では井伊直政が東山道筋の関長原に、徳川家が横川村に関所を設けたとされる。関所警護のため安中に移り、1615年に安中藩を立ち上げた直勝は、中山道整備に合わせて新たに横川関所(後に碓氷関所)を築くことになった。
22年、秀忠上洛準備のため視察に訪れた幕府の目付たちは、東山道経由で関所を抜けられる危険性を指摘。北約1・2キロ地点の関長原の方が要害の地としても良いとし、関所の移転を持ちかけた。
これに対し、直勝側は街道を守るには現在地が最良と固辞。東山道と中山道が合流する碓氷峠に堂峯番所を、秀忠が京都から帰還するまでの間は関長原にも仮番所を置くことで幕府の了解を得た。
一方、幕府は同心と門番の出向を決めた。表向きは人員強化だが「入鉄砲と出女」の監視や情報収集活動の主導権を握るのが狙いで、幕府に直接通報する役目を負った。
横川関所から碓氷関所への名称変更は1708年の記録が残るが、その前から碓氷関所名の手形は発行されていたという。同関所保存会の佐藤健一会長(80)は「東山道と中山道を同時に守るため、碓氷峠全体を監視した。その意義を名に込めたのだろう」と指摘した。
維新後、明治政府は全国の関所廃棄を命じたが、碓氷関所は地元関係者が解体した東門を保管。1959年の復元に結び付いた。井伊家ゆかりの関所は、本県を代表する歴史遺産として往時の姿を今に伝えている。(おわり)
安中支局の田中暁、高崎支社報道部の稲村勇輝、平山二葉が担当しました。
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