笠間藩主・牧野貞喜没後200年 生涯たどる特別展、茨城・笠間、11日から
■藩政改革、尽くした名君
江戸後期に笠間藩の財政再建に尽力した藩主・牧野貞喜(さだはる)が没して、2022年で200年。荒廃した農村の復興に取り組むとともに、藩校「時習館」を開いて人材育成に力を注いだ。茨城県笠間市教委は、名君といわれ藩政に尽くした貞喜の生涯をたどる特別展「没後200年牧野貞喜展」を11日から12月18日まで笠間公民館(同市石井)で開く。
特別展では自筆の和歌や頭像、牧野家ゆかりの甲冑(かっちゅう)などを一堂に展示する。また、講演会「牧野貞喜の生涯」を11月11日午後1時半から、講演会「牧野貞喜の藩政改革と名君のいわれ」を12月3日午後1時半から同公民館で開く。
貞喜は1758(宝暦8)年、幕府老中職を務めた牧野氏笠間藩2代藩主・貞長の長男として、江戸の上屋敷で生まれた。3代藩主に就いた頃、藩は財政面で危機的状況にあった。前藩主の貞長が幕府の要職にあって江戸在住が長く、支出が増えていたためだった。さらに天災による飢饉(ききん)により食料が不足し、農民は苦しい生活を送っていた。
貞喜は、藩主就任早々から改革に着手。その一つとして、荒廃した農村を立て直すため、親鸞(しんらん)ゆかりの西念寺の協力を得て、北陸地方の農民を藩内の荒廃した村に住まわせる「入百姓(いりびゃくしょう)」政策を推進した。政治改革の一環だった家臣対策では、藩の儒学者・秋元浚郊(しゅんこう)の家塾を藩校「時習館」とし、藩士の子弟を教育した。
文学や芸術にも秀で、和歌は京都の冷泉入道前大納言等覚(れいぜいにゅうどうさきのだいなごんとうかく)に学んだ。俳諧もたしなみ、連句に巧みな才を発揮。趣味も多彩で、歌謡、小鼓、生け花をはじめ、狩猟や馬術も好んだ。
特別展に向け、市史研究員8人は昨年度から関係資料の調査などに携わり、解説図録(A4判、43ページ)を編集。完成報告会で、小沼公道教育長は「100年後の人たちが読んでも誇れる内容に仕上がった。研究員の労苦に報いるためにも、子どもたちが地域の歴史を知るよりどころとなるよう活用したい」と謝意を示した。
市史研究員の一人で講演会講師を務める南秀利さん(85)は「牧野氏笠間藩の全体像を紹介し、改革に苦悩した貞喜の姿を伝えたい」と、同じく矢口圭二さん(80)は「18世紀後半の北関東全体の視点から、笠間藩の疲弊を社会経済学的に取り上げてみたい」と話した。