《真田の城 今昔》岩櫃(上)上州進出の拠点に
ㅤNHK大河ドラマ「真田丸」人気で、ゆかりの地である吾妻、利根沼田を訪れる人が増えている。岩櫃(いわびつ)、沼田など「真田の城」の往時の様子を探るとともに、誘客へ力を入れる地元の動きを追う。
ㅤ上田と沼田を結び、吾妻統一に重要な役割を果たした岩櫃城(東吾妻町原町)。急峻(きゅうしゅん)な地形と独特の竪堀を持つ名城として知られ、「真田丸」では雄大な岩櫃山がオープニングの背景映像に使われるなど注目を集めている。ただ要衝の地にいつ、誰が築城したかなど謎の部分も多い。
▼築城いつ?
一説に岩櫃城は、鎌倉時代に吾妻太郎という人物が築城したとされるが、伝承的なものではないかと考えられている。その後、戦国時代に真田氏と争った地元の豪族・斎藤氏が造ったという説もあるが、斎藤氏の居城は近くにあった「岩下城」という見方もあり、意見が分かれる。
斎藤氏による岩櫃城築城の根拠の一つに、鬼門の位置にあったとされる寺の存在が挙げられる。現在は東吾妻町原町の滝沢地区にある善導寺が1541(天文10)年、川戸の田辺地区から郷原の切沢地区に移動したという記述が残る。その場所は岩櫃城からみて鬼門の方角とされ、この時期に吾妻地域の拠点が岩櫃城に移った可能性が考えられるという。一方で、斎藤氏の築城に否定的な見方もある。
吾妻の要衝・岩櫃は63(永禄6)年、真田信繁(幸村)の祖父、幸隆が内応者を引き入れて制圧したと伝えられている。当時、どの程度の施設が整備されていたか不明だが、武田氏の先兵である真田氏が岩櫃を重視、その後上州進出の重要な拠点としたことは間違いないだろう。
山城を新たに建設したのか、既存建造物を大規模に改修したのか。いずれにしろ、武田三名城といわれる堅城は、勢力拡大を図る上杉、北条方と激しい攻防が続く中、北毛で大きな役割を担っていく。
▼V字型の堀
岩櫃山頂は岩盤が強固なため、少し下がった中腹に本丸を築いたとされる。その南側は200メートルに及ぶ絶壁だ。北、東、西の3方向には迷路のような竪堀を張り巡らせた。
堀は薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる形式で土を V字型に掘ったもの。本丸から北東へ約600メートル、現在のリゾートホテル「コニファーいわびつ」付近は、岩櫃城で最長の 330メートルの竪堀があったとみられる。
これほどの 竪堀を張り巡らした山城は県内で珍しいという。地元の重要な歴史遺産を 国指定史跡にしようと、発掘調査を進める 東吾妻町教委の吉田智哉さんは「この特徴は、長野や山梨の山城に見られる」と真田氏の後ろ盾になった 武田氏の影響を指摘している。
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