【ぐるっと県北】大田原城跡を歩く 北の脅威に備えた拠点
大田原市中心部には「大田原城」の遺構が残る。12月27日まで市那須与一伝承館で開催中の特別企画展「野州大田原城-奥羽に臨む城」を手掛けた同館学芸員、前川辰徳(まえかわたつのり)さん(34)に城跡を案内してもらうと、奥州街道沿いに位置し、北からの有事に備えて造られた近世城郭の名残があった。
旧大田原消防本部裏手から「龍城公園」に入ってすぐ、前川さんが前方を示した。「“枡形(ますがた)”がよく残っているでしょう」
本丸へ続く道は、直角に曲がっている。敵の進軍の勢いを削ぎ、同時に痛打を与えるための城郭機構「枡形虎口」の方形が残っていた。かつては「坂下門」もあり、水堀「三日月堀」の一部は今も残る。北郭(曲輪)から本丸を臨むと、関東では珍しい10メートル級の高土塁がそびえていた。
大田原城は北側の蛇尾川と川沿いの高さ50メートルほどの台地の地形をうまく使い、北からの攻撃に備えている。奥州街道(現国道461号)は切り通しとなっており、往来にもにらみを利かせる。最盛期は南北1キロ超にわたる規模だった。
この地に近世城郭が築かれた理由を、前川さんは「徳川方による奥羽への備え」と解説する。関ケ原の戦い直前、会津に徳川方と敵対する上杉景勝(うえすぎかげかつ)がいたため、隣接する那須地域に緊張が走った。
徳川方は奥州街道が通る大田原城を重要視し、大規模な修築を施した。面積は5倍ほどになり、水堀や高土塁が築かれた。大田原城での戦いはなかったが、徳川方の軍勢が籠城した記録が残る。
「マニア向けですが、すばらしい堀が残っています」。大田原神社から北200メートルほどのやぶの中、高さ5メートル、長さ150メートルほどの「江戸堀」も確認できた。
泰平の江戸時代には、宿場町として城下町が発展。だが幕末の戊辰戦争で、大田原藩は新政府方についたため、会津藩兵に防備の弱い“西”から攻められ、落城寸前まで追い込まれた。「会津藩は参勤交代で奥州街道を通っていた。大田原城のことはよく知っていたのでしょう」と前川さん。
大田原城には天守や石垣こそないが、高土塁や堀は往時の姿をよく残している。現状は観光化されているとは言い難く、もったいない気がした。
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