信長の伝馬朱印状発見 栃木県立博物館 全国初の確認
織田信長(おだのぶなが)が戦国時代末期、現在の栃木市などの領主・皆川広照(みながわひろてる)の家臣に与えた「伝馬(てんま)朱印状」が27日までに、県立博物館に寄託されている皆川文書の中から見つかった。伝馬朱印状は街道筋の宿場に人馬の提供を命じる書状で、信長が出したものは全国で初めての確認だという。調査した同館の江田郁夫(えだいくお)学芸部長は「関所撤廃や道路拡幅をした信長の交通政策解明の手掛かりになるのでは」としている。28日から同館で公開する。
確認された伝馬朱印状はコウゾを原料とする和紙で縦27・4センチ、横14センチ。朱印は縦5・7センチ、横5・5センチ。1581(天正9)年11月8日付で、「伝馬七匹を三河・遠江(静岡)の宿中(宿場)は、まちがいなく差し出すように」などとあった。信長の意向を受けた側近が書いたとみられる。
広照の家臣である関口石見守(せきぐちいわみのかみ)が信長の居城・安土城(滋賀)へ出向き、名馬3頭を献上したところ、喜んだ信長が伝馬朱印状を手渡したとされる。石見守らは帰路、浜松城で徳川家康(とくがわいえやす)から別の伝馬朱印状も受け取っている。
伝馬朱印状の差出人については家康とするのが一般的だったが、皆川文書に含まれる家康の伝馬朱印状などと比較した結果、「内容、紙の質、筆跡、印文、朱印が家康とは全て異なる」と江田学芸部長。「家康でなければ、三河・遠江を勢力下に置く家康の主君信長しかいない」と強調する。
信長と家康の朱印には、際立った違いがある。信長の朱印には上部に馬の顔が描かれ、持ち前のセンスを映す意匠性がうかがえる。一方、家康の朱印は「伝馬之調(てんまのととのえ)」と印文に要点が簡潔に表現されている。
皆川文書は1992年、東京都内に住む皆川氏の子孫が同館に寄託。計146通の文書や関連資料がある。
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