《井伊氏と高崎安中(7)》大泉寺 直勝後見の母 眠る

上毛新聞
2017年2月25日

井伊直政の正室の唐梅院は1639年に死去、大泉寺(安中市安中)に葬られた。夫の死後、息子を見守り続けた人生だった。
関ケ原の負傷などが原因で02年に直政が亡くなり、直勝は12歳で2代目彦根藩主となった。徳川家康の養女で、直勝の母の唐梅院は実質的な後見役だった。
だが、今川や武田の遺臣らを加え、徳川四天王筆頭として膨張を続けた井伊家は直政の死をきっかけに制御を失い、家臣間の内紛が始まる。騒動は家康の介入で収まったが、直勝は指導力不足を問われることになったとされる。
14年の大坂冬の陣では弟の直孝が井伊家を率いた。直勝は関所警護のため安中に移り、唐梅院も付き添った。冬の陣後の15年に彦根藩主の座と主力部隊の「赤備え」は正式に直孝が継いだ。これも家康の命令だったという。
直勝には井伊家発祥の地である遠江の井伊谷(静岡県浜松市)以来の家臣が従い、同年に安中藩を新設した。
安中と井伊家の関わりを調べている半左重雄さん(67)=安中市高別当=は「安中藩の基礎を築いた直勝は無能ではなかった。平和な社会で家を継げていたら歴史の評価も違ったのでは」と唐梅院の気持ちを代弁するかのように話した。
戦時中に供出された大泉寺の釣り鐘には、唐梅院の寄進で同寺に初めて釣り鐘ができ、それが壊れたため新造したという経緯が彫られていたという。地元との関係強化に心を砕いたとみられる。
同寺の明治期の施主名簿に、最後の与板藩主直安の名がある。井伊家は45年に安中藩から転封し、最終的に新潟の与板藩で維新を迎えたが、唐梅院の墓が残ったことで交流も続いていたことが分かる。

【写真】唐梅院が眠る市指定史跡「井伊直政正室の墓」=大泉寺

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