茨城・笠間「大日堂」公開 見学は予約制 「仏画の本領」立体曼荼羅 木村武山、古美術研究の粋
茨城県笠間市出身の日本画家、木村武山によって昭和初期に建てられた「大日堂」(同市箱田、市所有)の公開が始まった。武山作品の特徴といえば、華やかな色彩と壮麗な世界観。建物内は、安置された木造の大日如来座像を囲むように、壁や天井、柱には如来や菩薩(ぼさつ)が描かれ、「仏画の武山」の本領が垣間見られる。注目すべきは4本の柱に描かれた金泥の如来で、専門家は「大日如来座像を中心に立体曼荼羅(まんだら)を構成している」と解釈。古美術研究の粋が凝縮したこれらの画業には、古里笠間への特別な思いが込められているという。
■中尊寺の機縁
大日堂は1935(昭和10)年、武山が59歳の時に建てられた。武山の生家が大日如来を本尊とする吉祥院の跡にあり、安置していたお堂は荒れ果てていた。心を痛めた武山の母親は、お堂の再建を要望。造り始めて間もなく母親は亡くなり、結果的にお堂が菩提(ぼだい)を弔う形になった。
建物は、中尊寺金色堂(岩手県)の様式を取り入れた宝形造りで、広さは2間半(4・5メートル)四方。近畿地方から宮大工を招いて総ひのき造りにし、木造平屋の屋根は三州瓦(愛知県)でふかれている。
建立の38年前、東京美術学校を出たばかりの武山は、中尊寺金色堂の修復事業に助手として参加。この機縁は、後の仏画制作に少なからず影響を与えたとされている。
■金泥の如来像
建物内は、中央の須弥壇(しゅみだん)に前述の木造の大日如来像が鎮座。同市によると、平安中期の作とされる。奥の中央壁面に大日如来が、左右の日光菩薩、月光(がっこう)菩薩とともに壮麗な空間をつくりあげている。さらに左側壁面の弘法大師(空海)と右側壁面の虚空蔵(こくうぞう)菩薩が、慈悲深い表情をたたえる。
県近代美術館企画課の中田智則課長(日本美術)は、弘法大師像について「大日如来を本尊とする真言宗の開祖を、武山は崇敬の念を込めて描いた」と説明する。
中田課長の調査で、4本の柱上部それぞれに金泥で描かれた如来像が確認された。開敷華王(かいふけおう)、宝幢(ほうどう)、無量寿、天鼓雷音(てんくらいおん)と呼ばれる如来像で、大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現した両界曼荼羅の一つ胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅を構成しているという。
中田課長は「武山はお堂内の柱に如来像を描き、立体曼荼羅をつくった。ただ中心は、自らが壁に描いた大日如来像でなく、木造の大日如来座像になる」と主張する。
大日堂建立の前年(34年)、武山は、真言宗の総本山、高野山金剛峯寺(和歌山県)の金堂壁画を手がけ、日本中の話題を集めた。四隅の八供養菩薩と堂裏の壁面は、「仏画家武山の集大成」といわれる。
中田課長は、笠間に私費を投じて建てた大日堂を「高野山での栄誉にくみした仕事のエッセンスを取り入れた。信仰心と古里への特別な思いを込めた仏画の総決算と考えられる」と説く。
■地域挙げ目配りを
同市によると、大日堂と土地は89年、当時所有していた武山の子孫から大阪府内の法人に売却されていた。市は、大日堂が管理されず朽ち果てようとする状況を危惧し、2018年4月、取得方針を決定。管財人との交渉などを経て、昨年2月に購入契約が成立した。
市は「今後、貴重な文化遺産として後世に伝えるため、市指定文化財にしていきたい」としている。
中田課長は、大日堂が特殊な事情で90年近く人目に触れられる機会が少なかったことを踏まえ、「絵の素材となる日本画顔料は環境の変化に敏感なので、雨漏りの有無、温度・湿度などをきちんと管理することが求められる」と指摘する。各地で発生する仏像の盗難事件などを引き合いに出し、「行政だけでなく、日ごろから地域を挙げて目配りしていくことが重要になる」と呼びかけた。
■見学は予約制
大日堂の公開は毎月第2、4日曜の午前9時~午後4時。完全予約制。拝観料は大人500円、小中高生300円。申し込みは、笠間市生涯学習課(電)0296(77)1101。拝観希望日の5日前までに申し込む。
■きむら・ぶざん
1876~1942年。本名は信太郎。明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家。旧笠間藩士の長男として育ち、幼少期から絵をたしなむ。東京美術学校を卒業後、岡倉天心(覚三)による日本美術院の創設に参加。茨城県・五浦(北茨城市)で、横山大観や菱田春草、下村観山らと日本画の革新に取り組んだ。琳派に学んだ壮麗な作風と華やかな色彩が特徴。歴史画、花鳥画、仏画などで数多くの名品を残す。37年、病のため右手の自由を失い、左手で絵筆を執ったことから「左武山」の異名もある。