病、妻の死、歌への思い 親友宛て書簡で生涯たどる 県立文学館 吉野秀雄没後50年展

上毛新聞
2017年10月18日

高崎市出身の歌人、吉野秀雄(1902~67年)の没後50年を記念した企画展が同市の県立土屋文明記念文学館で開かれている。自身の病や妻の死を乗り越え、歌集「寒蟬集(かんせんしゅう)」で歌壇内外に名を知らしめた秀雄。その生き方や歌への思いを、15歳で出会った親友の中野幸一郎さん(02~79年)との往復書簡を中心にたどっている。

秀雄は同市の織物問屋の次男として生まれた。一方、新潟県柏崎市生まれの幸一郎さんは柏崎商業学校卒業後、秀雄の生家の吉野藤一郎本店(後の吉野藤)に入店。同い年の2人は意気投合し、晩年まで交流した。
2年前、全集未収録の36通を含む71通の「中野幸一郎宛吉野秀雄書簡」を、幸一郎さんの長男の洋一さんが同館に寄贈。県立神奈川近代文学館蔵の「吉野秀雄宛中野幸一郎書簡」と合わせ、今回の展示が実現した。秀雄の慶応義塾大入学など六つの章で軌跡を紹介している。
「北の海が北の海の沈鬱を捨てゝ一面の輝きに君を抱いたことを祝そうよ」と歌うように始まるのは、全集未収録の22年6月9日付の秀雄のはがき。徴兵検査のため、柏崎に帰省した幸一郎さんから届いた同月8日付のはがきに対し、すぐに返事を出すほど親密だった。「朔太郎の『新らしき欲情』も一寸面白い」と幸一郎さんと文学の話がしたくて仕方ない様子が伝わる。

◎手紙が支え
同大在学中に正岡子規を訪ねた秀雄は写生に取り組むことを決心。結核を患い、退学を余儀なくされたが、作歌をよりどころとした。鎌倉で療養中に詠んだ303首は26年に病床歌集「天井凝視」(私家版)にまとめた。
〈友らみな独り世に立つときほふめりわれは常病(とこや)み猿にかも劣る〉
同じころ、幸一郎さんも肺を病み、郷里で療養した。秀雄が幸一郎さんを励ますために贈った歌に対し、幸一郎さんは「毎日口吟み居り候」と手紙で応えている。やりとりが支えとなったのだろう。秀雄は本の感想や体験を元にした病への心構えなど、この時期に多くの手紙を残した。

◎助言と感想
病が小康状態となった秀雄は33年に吉野藤東京支店に入社。月刊宣伝紙「吉野マンスリー」(全90号)が戦時統制で廃刊となるまで編集を担った。高崎の豪商、浅見助七の伝記も幸一郎さんと2人でまとめた。往復書簡は秀雄が経済や織物に関する助言を求め、幸一郎さんは冊子の感想を記す。それぞれ結婚し、家族に関する内容も多い。
無名に近かった歌人・吉野秀雄を世に出したのは「創元」創刊号(46年12月)に掲載の「短歌百余章」と題した作品。4人の子を残して亡くなった妻への挽歌(ばんか)は47年10月出版の歌集「寒蟬集」に収められた。手紙で幸一郎さんは、歌集の評価の高まりをわが事のように喜んだ。
〈病む妻の足頸にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし〉
〈これやこの一期( いちご )のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹〉
(天笠美由紀)

【メモ】歌人吉野秀雄没後50年記念「ひとすじに真実を、ひとすじに命を 吉野秀雄・中野幸一郎往復書簡」は12月10日まで。資料150点を展示。午前9時半~午後5時。火曜休館。一般410円。11月3日に批評家・随筆家の若松英輔さん、同23日に歌人の来嶋靖生さんの記念講演会がある。両日とも午後2時から。参加無料で定員150人。申し込み、問い合わせは県立土屋文明記念文学館(☎027・373・7721)へ。

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