農民救った青木堰再建 二宮尊徳手掛けた土木事業 桜川市

茨城新聞
2017年9月1日

江戸時代の農政家として知られる二宮尊徳(1787~1856年)は、旗本領の桜町(栃木県真岡市)を拠点に農村復興に取り組んだ。本県内でも桜川市や筑西市などで活動したことが知られている。しかし、今も残される尊徳の手掛けた県内の遺構は意外に少ない。旧青木村(桜川市青木)には尊徳が再建した桜川の青木堰(ぜき)跡と、堰の杭材(こうざい)を再利用して作られた薬王寺山門がある。青木堰跡などを歩きながら、尊徳の足跡を振り返った。

▽桜の名所

青木堰跡は、北関東自動車道桜川筑西インターチェンジの南東約1・5キロにある。桜川が極端な弧を描いて流れる地点で、現在のコンクリート製の青木堰よりも数十メートル下流にあったという。付近の堤跡は尊徳の植樹に由来するサクラの名所ともなっている。尊徳の土木事業の面影をしのばせる。

堰から南約2キロに薬王寺がある。尊徳ゆかりの部材を生かした山門は、1918年に完成。柱は水に強いケヤキ材で、堰の時代に桟を通した穴跡が残る。重厚な印象で風格がある。

案内してくれたのは元筑西市立下館小校長で郷土史家の舘野義久さん(85)。桜川市青木の生まれで、尊徳研究をライフワークとしている。

▽荒廃免れる

青木堰の位置には、尊徳の再建前にも木造の堰があった。しかし大水で破損した後、村の領主の旗本はなかなか再建に動かなかった。農村復興を巡る尊徳の名声を聞いた村民は、北西3里(約12キロ)の桜町陣屋を訪れ、堰再建への助力を嘆願した。尊徳は当初、非常に慎重で、村の領主の許可を前提に引き受けた。

堰の建設資金は、大所の農民の土地を担保にするなどして調達された。堰の建設地は砂地で難工事が予想された。だが尊徳は最初に木造かやぶきの家屋を上流に建てた上、それを川に引き落として堰建設の足場とし、村民を大いに驚かせた。

堰が完成した1833年は大雨が続き、「天保の大飢饉(だいききん)」が始まる。しかし危機が深刻化する周辺村落と異なり、尊徳の指導を受けた青木村は荒廃を免れ、生産された穀物は蓄えができるほどだった。「尊徳のおかげだと語り継がれていた」と舘野さん。青木村の取り組みは尊徳にとって桜町外の初の本格的な実績で、後に他領で行う事業のモデルケースとなったという。下館藩(筑西市)も37年、尊徳に協力を嘆願し、藩士の俸禄(ほうろく)カットを軸とする財政再建が断行された。

▽行政への遺訓

舘野さんは子どものころに家に縄なえの習慣があったのを記憶している。農民の意識改革を行った尊徳の教えの名残だ。「尊徳は村に経済の概念を植え付けた。天候を運命として諦めるのでなく、人の力で経済を立て直せるという考え方に変えさせた。それは近代に通じる」と舘野さん。その一方で「尊徳は、勤労などの道徳的な側面ばかりが強調されがち。だが実像は、社会の底辺からものを考えた人だった。実践家の側面を、もっと多くの人に知ってほしい」と強調する。

尊徳は、まきを背負い働きながら書物を読む立像とともに、道徳の「モデル」として知られる。しかし青木村の尊徳の事業は、避けられたはずの「天災」を巡る行政への警鐘と遺訓に見える。尊徳の「実像」は、どれだけ後世に伝わっているだろうか。桜川市青木の遺構と伝承は、学びの宝庫であると実感させられた。

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