「飯沼」新田開発300年 古河・三和資料館で企画展 維持管理の苦労の資料も 茨城

江戸時代の中期、現在の茨城県古河市東部から同県常総市にかけて「飯沼」と呼ばれる広大な沼が南北に広がっていた。一帯の新田開発が始まって300年を記念した企画展が古河市仁連の市三和資料館で開かれている。開発以前の沼の姿や、開発を巡る地元の争い、開発後の維持や管理の苦労がしのばれる貴重な資料を展示している。同展は9月15日まで。
同資料館によると、飯沼の新田開発をテーマにした企画展は初めて。人々は魚や水草の収穫など、沼の恵みを受けて暮らしていた。干拓計画は江戸初期から幾度も浮上したが、地元の間でも賛否が分かれ、幕府から正式に許可されたのは1724(享保9)年。8代将軍の徳川吉宗が新田開発を奨励し、土木技術に秀でた紀伊国出身の井沢弥惣兵衛ら幕府の役人が主導したことで、翌年から開発が始まった。

古地図に記された飯沼の新田開発=古河市仁連
今回の企画展では、飯沼周辺の24村の名主ら村役人が血判付きで署名した「血判起請文(きしょうもん)」の写しなども展示しているが、村によっては署名に加わった名主の数にばらつきがあり、結束は決して一枚岩でなかったこともうかがわれる。
洪水や干ばつに何度も見舞われ、田んぼからの排水がうまくいかないなど苦労が絶えなかった。ある区域では田んぼの大半が「水腐れ」と記された地図もある。「美田三千町歩」と呼ばれる地帯に生まれ変わったのは、近代的な水門や堰(せき)などが整備された昭和30年代になってからだという。
学芸員の峯照男さんは「今も地元への恩恵は大きい。新田開発の歴史を知ってほしい」と話している。
問い合わせは同資料館(電)0280(75)1511。