《茨城県内お宝拝見》観海楼桝池略図 北茨城市歴史民俗資料館

茨城新聞
2024年8月24日

■雨情と水戸藩結ぶ

「七つの子」や「赤い靴」、「シャボン玉」など多くの名作を残した茨城県北茨城市出身の童謡詩人、野口雨情(1882~1945年)。野口家は地元の名家で、水戸藩成立時期に取り立てられた郷士でもあった。多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)にあった野口家の住まいは、藩主が領内巡視の際に立ち寄る時の宿泊所とされ「観海亭」と呼ばれた。

磯原海岸に程近い同市磯原町磯原の市歴史民俗資料館の寄託品に、同藩の儒学者、立原翠軒(1744~1823年)の描いた「観海楼(かんかいろう)桝池(ますいけ)略図(りゃくず)」がある。翠軒は彰考館総裁として「大日本史」の編さんに大きな功績を残した人物。同図は1791年3月に、6代藩主徳川治保(はるもり)の多賀郡の巡視に同行し、野口家に立ち寄った時の作とされる。

市生涯学習課主任の早川麗司(れいじ)さん(49)は「江戸時代の観海亭が描かれた唯一の資料。野口家と水戸徳川家の深いつながりを示す」と話す。

紙本(しほん)で大きさは縦約1.6メートル、横約40センチ。右下の建物が観海亭だ。異国船を見張る施設が置かれた番所山の麓に位置する。「楼」は高層の建物などの意味があり「観海亭にそのような建物があったと考えられている」(早川さん)。当時の場所は現存する雨情生家とは異なる。同図にある池は埋め立てられ、現在は常磐線の線路が敷かれている場所にあったとみられる。

右上には2代藩主光圀から名付けられたことなど、観海亭のゆかりが書かれている。光圀が書いた題字が火事で焼失し、1791年の巡視で治保が題字を贈ったという。文中では「失った珠が璧(へき)(古代中国の玉器)となって野口家に戻ってきたようだ」と表現している。雨情生家には治保の題字を基に、雨情の高祖父(3代前の人の父)に当たる野口勝興(かつおき)が作った刻字額が残されている。

明治時代に生まれた雨情も野口家に強い誇りを持っていた。1917年に長男の雅夫に書いた手紙では家系を記し、同藩郷士の家柄を誇りに思い、家名を重んじることを伝えている。また、野口家は幕末に活躍した同藩の尊皇攘夷派の志士、西丸帯刀(さいまるたてわき)(1822~1913年)を輩出している。雨情の大叔父で2人は手紙のやりとりがあった。

同資料館2階からは番所山が見え、約400メートルの距離には雨情生家がある。早川さんは「資料館からウオーキングがてら周辺を見て回り、昔の観海亭に思いを巡らせてほしい」と話した。

【メモ】
同図は9月1日までの企画展で展示。午前9時~午後4時半。入館は同4時まで。月曜休館。

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