横綱常陸山の生涯に焦点 錦絵や掛け軸、資料120点 24日まで 水戸・市立博物館特別展 茨城

茨城新聞
2024年11月2日

明治から大正にかけて活躍した茨城県水戸市出身の第19代横綱常陸山の生誕150年を祝う特別展「常陸山谷右衛門-『角聖』の生きた時代-」が、同市大町の市立博物館で開かれている。近代化で人気が衰えた相撲を国技に押し上げた功績や、災厄で傷ついた故郷を巡業で元気づけた横顔を120点の資料でひもとく。同館の藤井達也学芸員は「常陸山の生涯に焦点を当てた展示は珍しい。今と地続きの相撲を形づくった偉人を多面的に知ってほしい」と話している。同展は24日まで。

常陸山谷右衛門=本名市毛谷=は1874(明治7)年、旧水戸藩士の家に生まれた。父の会社が倒産して旧制水戸中(現県立水戸一高)を退学し、叔父を頼って上京。「225キロの巨石を軽々持ち上げた」との逸話が残るほどの怪力を買われ、91(同24)年に17歳で角界入りした。抜きん出た巨体ではなかったものの、相手の攻めを真正面から受け止めて余裕で返す「横綱相撲」を体現し、幕内の勝率は9割を超えた。心技体そろった力士として、大相撲の黄金期を築いた。

展示は全5章で、2、3章は常陸山の飛躍を紹介する。ずらりと並んだ番付表には「水戸」の文字を刻み、当時最高位の大関に昇進する勢いを目で追える。現役後期のまわし姿を描く錦絵は、水戸徳川家の葵(あおい)の紋をあしらった化粧まわしをまとい、故郷を背負った横綱の雄姿を伝える。

常陸山は巡業先の北海道小樽市から茨城県土浦市のひいきに宛てた書簡で「有望な若者を弟子入りさせる方法を教えてほしい」と請うている。社交的で筆まめな一面と共に、後進の育成に力を入れていたことが分かる。

1914(大正3)年に40歳で現役を退き、程なく「三拾六俵天地宏(さんじゅうろっぴょうてんちひろし)」の掛け軸を揮毫(きごう)した。「土俵は36個の俵で囲まれた狭い場所だが、その世界は無限に広く、相撲の可能性は果てしないことを記したのではないか」と藤井さんは推し量る。

5章では上京から没年まで東京に住みながら、郷里の人々に心を傾け続けた足跡を明らかにする。10(明治43)年に茨城・千葉県沖で439人が亡くなる海難事故があり、犠牲者の多くが住んだ那珂湊で翌年、追悼の大相撲を興行した。人気力士を集め「深夜2時から(客が)どんどん押しかける」盛況ぶりで、収益の大部分を遺族に配り、犠牲を悼む石碑を建立したエピソードを紹介している。

藤井さんは「展示を機に、常陸山の知られざる実像を伝える資料や情報が集まればありがたい」と期待を寄せる。

特別展は200円。3、16、24日は藤井さんが見どころを解説。各日2回、午前11時~と午後2時~。月曜休館。