関右馬允 15代の歩み紹介 政宗書状や煙害記録 茨城・日立

茨城新聞
2024年10月15日

茨城県日立市で中世から近現代にかけて指導的な役割を果たした関家の歩みを紹介する特別展示「庄屋・関右馬允(うまのじょう)が向き合った日立の600年」が、同市宮田町の市郷土博物館で開かれている。戦国武将・伊達政宗の書状や、日立鉱山の煙害問題の解決に奔走した第15代右馬允による調査記録など、初公開資料を含む約150点が並ぶ。同展示は11月4日まで。

関家は奥州白河を拠点とする中世武家にルーツがあり、南北朝期に久慈郡入四間村(日立市)に移ったとされる。近世には村の庄屋を務め、御岩神社に参拝する水戸藩主の接待も担った。明治期に郷士に起用され、当主は代々「右馬允」を襲名した。

政宗の書状は1590年のものとみられ、署名と花押(かおう)(サイン)が残る原本を展示。宛名の関氏は奥州白川氏の重臣と考えられ、文面は丁寧な言葉遣いが特徴。書状は後に関家を訪れた水戸藩主・徳川斉昭が表装させた。書状の中で政宗は、関東に攻め込む上で重要だった下野国の那須氏と敵対関係となったことを「無念」と言及。京都へ豊臣秀吉にあいさつに行くことを決めたと伝えており、当時の政治状況を知る貴重な史料という。

第15代右馬允(1888~1973年)は日立鉱山の煙害問題で住民側リーダーを務め、新田次郎の小説「ある町の高い煙突」のモデルとなった。会場には数学が得意できちょうめんだった右馬允が、被害状況や補償交渉などを詳細に記した調査表が並ぶ。

右馬允の日記には新田次郎が取材に来た日の様子もあり、小説化に向けて新田次郎の質問は「微に入り細をうがった」といい、自宅に泊まり「追加質問」を重ねていったことを紹介している。

今回展示するのは関家の所蔵資料。ほかに徳川斉昭から贈られた紋付き羽織や斉昭が関家に宿泊した際に使った箸、関家と交流のあった画家の絵などもある。カメラ好きの第15代右馬允が撮影した県内の巨樹老木や市民の暮らしぶりの写真も並ぶ。

企画を担当したのは同館の宮内教男研究員。高校教員時代から長く関家の資料調査に当たってきたといい、「日立地方の歴史が分かる資料が満載で、これをまとまった形で市民に伝えられればいい」としている。