《井伊氏と高崎安中(2)》城下町 町名に直政の名残

上毛新聞
2017年2月17日

井伊直政が箕輪城主だった8年間でどのような政策を打ち出し、領地を治めたかを記す史料は少ないが、町割りや町名に直政時代の影響が見て取れる。
城跡南側の大手門(高崎市箕郷町西明屋(あきや))は、城下町への出入り口として直政が配置した。門から南方向に延びる県道高崎安中渋川線や、市箕郷支所前の通りなどはこのときのもので、箕郷地域の中心街だ。
城周辺は大字で「西明屋」「東明屋」と呼ばれている。地元では“あきや”は、直政が城を高崎に移した結果できた城下の「空き家」が由来だと伝えられている。
当時、城南西側の西明屋地区は町人屋敷、東側の東明屋地区は武家屋敷が広がり「上野国一のにぎわい」をみせる城下町だったとされる。しかし城の移転に伴い一帯は軒並み“空き家”に。「後の人が大字をつける際に縁起のいい『明』を当てたのではないか」と郷土史研究家の西原巌さん(73)は分析する。
移転にまつわる逸話はもう一つある。「ぢぢばば石伝説」だ。箕郷町誌によると、石は城を造り長年治めた長野氏が城内で大事にした夫婦(めおと)石。直政はこれらを高崎まで運ばせようとしたが、石が一晩のうちに箕輪城に戻ったため「亡き城主をそれほど慕うなら」と諦めたという。
武士や町人だけでなく、寺社など町全体を高崎に移した直政。移転の歴史は、高崎市中心部の「紺屋町」「連雀町」といった町名が、箕郷の小字として残っていることからも分かる。

 

【写真】直政が整備したという道には城下町の面影を残そうと通り名を記した木札が連なる

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