《真田の城 今昔》沼田(中) 実業家 公園に整備 

上毛新聞
2016年8月31日

ㅤ真田信之が城主になって以降、信之の子孫によって治められた沼田城だが、1681年に5代目城主の信利が改易になり、5層の天守を誇った城は取り壊された。現在、城跡は公園として整備され、市民らの憩いの地となっているが、そこには一人の実業家の存在がある。

▼荒れ地買い取り
ㅤ戦国の終わりから江戸前期にかけて91年間続いた真田氏による統治が終わると、沼田は幕府の直轄領となり代官が置かれた。1703年からは再び藩となり、本多氏が藩主に。その後、藩主は黒田氏、土岐氏へと変わっていった。しかし明治に入り、廃藩置県が行われるとともに藩主の館も取り壊され、城跡一帯は民間人に払い下げられることになる。
ㅤ跡地は分割して数人に売り渡された。一部は開墾して畑として使用されたが、多くは手つかずで放置され荒れ地になったという。その惨状を受け、沼田藩士の子で、実業家として成功を収めた久米民之助(1861~1931年)が整備を決意する。
ㅤ久米は工部大学校(現東京大学)を卒業後、宮内省に入り皇居の二重橋の造営などに携わった。その後、会社を設立して国内外で鉄道工事を手掛けるなどした。1898年からは衆議院議員を4期務めた。
ㅤ1916年、久米はふるさとへの恩返しのために私財を投じて城跡の土地を買い取り、工事に着手。当時、自宅は都内にあったが、工事が始まると沼田に寄宿し、自ら現場に立って指示を出したと伝わる。
ㅤこのとき整備されたのは現在、花壇や鐘楼がある公園西側に当たる場所。作業員を雇って整地や植樹を行い、公園としての形を作り、26年には旧沼田町(現沼田市)に寄贈された。29年から東側の工事が始まったが、完了前に久米は亡くなった。陸上競技場やプールの建設を考えていたとも言われるが、設計図は残っておらず、どのような全体像を描いてたのか知る手掛かりはない。

▼名誉市民に
ㅤ市は89年に久米を名誉市民とした。市文化財調査委員の水田稔さん(69)=同市馬喰町=は「久米の整備がなければ、沼田城の跡地が住宅地になっていたかもしれない。公園化によって堀が埋められたりもしているが、エリアがそっくり残ったことの意義は大きい」と功績を評価する。
ㅤ久米は生前、この公園を「寿楽園」と名付けたが、住民の間では「久米公園」と呼ばれたという。56年、都市公園法施行に伴い、名称を「沼田公園」とした。
ㅤ現在、公園入り口には観光案内所が設置され、大河ドラマ効果で多くの人が訪れている。最近では、スマートフォン向けの人気ゲーム「ポケモンGO」の市内有数のスポットとして知られ、新たなにぎわいも生まれている。

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