《茨城県央ぶらりと見て歩記》 涸沼を一望する要衝  宮ケ崎城跡(茨城町) 台地の先端に築城

茨城新聞
2020年8月30日

茨城町宮ケ崎の涸沼南岸に中世の城郭・宮ケ崎城跡がある。県道沿いには住民有志でつくる宮ケ崎城跡保存会(斉藤守会長)が2014年7月に設けた看板がある。その脇を抜けると、畑に囲まれた小高い台地状の城跡が姿を見せる。樹木に覆われて全容を把握するのは難しいが、ここが涸沼に面した拠点であったことは、地形が物語っている。

保存会の住民有志が設置した城跡を紹介する看板。県道沿いにある=茨城町宮ケ崎

 

宮ケ崎城跡は、涸沼に向かって張り出した標高23メートルの台地の先端部にあり、鹿島郡領・鹿島氏の流れをくむ宮崎氏が鎌倉時代初期に築城したものとみられる。4区画の城郭を区切る空堀・土塁が残るが、史跡指定は受けていない。

茨城町史によると、台地には東西から入り込んだ谷があり、これを利用して堀切を掘って外堀とし、その内側に土塁を築いている。外堀の2カ所に土橋があり、場内に進むと空堀と土塁で囲まれた本丸がある。

江戸氏にゆかりも?

宮崎氏は1416年に江戸氏らに滅ぼされた。同城跡を含む周辺地域は、1591年の佐竹氏の鹿島侵攻以降は佐竹氏支配地となった。

同町史によると、宮ケ崎城跡について、「問題はこれがいつの時代のものかという点がある」と宮崎氏の城の可能性はあるものの、「居城とした可能性は少ない」と指摘。宮崎氏の居城は城跡と向かい合う宮ケ崎館跡とみている。宮ケ崎城跡は、室町後期以降、江戸氏の一族か、その家臣が再興した江戸氏にゆかりのある城跡とみるのが妥当、としている。

宮ケ崎村(当時)の西隣、海老沢村(同)は水戸藩が水運の拠点として整備し、この地域の中心に成長していった。宮ケ崎はそれまで涸沼の水運や漁業の中心的な位置を占めていたと推測。

同町史では、中世の宮ケ崎の集落には、廻船(かいせん)業を営む人、漁業と廻船業を兼務する人、漁業の傍ら農業を営む人、農業を基本に漁業を営む人などが住んでいたとみている。

地元の歴史、後世に

「涸沼を一望できる要衝だったのでは」と保存会の斉藤会長は指摘する。

看板を設置した当時、保存会の会員は15人いたが、高齢化が進むなどして現在は10人。斉藤会長も87歳になった。保存会にとって城跡の草刈りもままならないという。

城跡の南部を横切る県道整備の際、県教育財団が1998年に埋蔵文化財調査を行った。同調査を通して関心を高めた斉藤会長らは、史跡に関する講演会を実施したほか、2012年3月に町議会に史跡全体の発掘調査を求める請願書を提出した。請願は採択されたものの、予算措置など町の対応は進まなかった。

城跡には記念碑もある。そこには「地元の歴史を後世に伝える大切な史跡」と刻まれている。(随時掲載)

宮崎氏の没落
茨城町史によると、鎌倉府内部での主導権争い(関東管領の就任争い)から、家臣の所領没収に端を発し、1416年10月に上杉禅秀が起こした「上杉禅秀の乱」に、宮崎氏も加担。禅秀の敗死後、宮崎氏の所領は全て没収され、その一部は烟田氏が獲得し、勢力を拡大していった。

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