《井伊氏と高崎安中(4)》龍広寺 和尚が地名・高崎進言

上毛新聞
2017年2月20日

高崎山龍広寺は、国道17号と聖石橋の交差点近くにある。箕郷町東明屋にある龍門寺の末寺であり、1598年年、徳川家康の命で箕輪城から和田の地に移った井伊直政が開基した。この寺が高崎という地名が生まれたゆかりの場所だったという逸話が伝わる。
直政が入城する以前の高崎は和田氏が築いた小さな城があり、和田宿、和田駅などと呼ばれていた。ここに直政は箕輪から移り住むことになったが、和田氏はすでに滅亡しているのに、和田宿では聞こえが悪いので、新しい名称をつけることになった。
直政は、現高崎市街地の西側を流れる烏川の川岸に並ぶ松林や悠々と飛ぶ鷹(たか)を見て「松ケ崎」「鷹ケ崎」という地名を考案。だが、箕輪時代より信頼していた龍広寺の白庵秀関和尚から「生物には生死栄枯あり、成功高大の義をとって高崎とされては」と進言を受け、多いに感銘を受けたという。井伊はこの地を高崎とし、龍広寺の山号を高崎山と命じた。
29代目・現住職の喜美候部正令さん(60)は「高崎という地名には雄大な意味や直政の思いが込められている。高崎の発展を願い、人々を見守る代々の使命を果たしていきたい」と話す。
境内の墓地には直政の供養塔もあり「高崎城主兵部少輔井伊直政」などと書かれている。同寺庫院の入り口に掲げられた「丸に橘」の紋は井伊家のもの。高崎の歴史の礎を築いた直政の息づかいが、寺院から感じられるようだ。

 

【写真】白庵和尚が直政に「高崎」の命名を勧めたと伝わる龍広寺

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