《真田の城 今昔》沼田(上) 大名が要衝争奪戦 

上毛新聞
2016年8月24日

ㅤ利根川、薄根川、片品川の河岸段丘の段丘面に市街地が広がる沼田市。軍事・交通の要衝として上杉、北条、真田といった戦国大名が争奪戦を繰り広げた沼田城(同市西倉内町)は崖の上にそびえた。

▼関越つなぐ地
ㅤこの地に最初に城を築いたのは沼田氏12代目の沼田顕泰で、1532年と伝わる。当時は蔵内城(倉内城)と呼ばれた。沼田を支配下に置いた越後(新潟県)の大名、上杉謙信が死亡した78年以降、城を巡る争いは激化していく。関東と越後をつなぐ場所に位置する重要拠点であり、勢力拡大を狙う大名が押さえておきたい地であったとみられている。
ㅤ謙信の養子2人による跡目争いのさなかに、北条氏が沼田城を攻略した。80年には武田氏の家臣だった真田昌幸が国衆や城代を次々に調略し、城を手に入れた。昌幸の時代には沼田氏の子孫による挙兵や、城代の謀反などが起きたが、いずれも制圧された。
ㅤ82年4月、武田勝頼が織田家によって追い込まれ自刃。主君を失った昌幸は織田に沼田城を明け渡したが、6月に本能寺の変で織田信長が亡くなると、すかさず城を奪取した。織田家の下にあったのは80日あまりだったという。その後から87年にかけて北条氏が幾度となく進軍してきたが、沼田城代の矢沢頼綱が奮戦し大軍を退けたと伝わる。
ㅤ89年、豊臣秀吉により、沼田城を北条の領地とする裁定が下された。90年に北条が滅びると、真田に沼田領2万7千石が与えられ、信之が城主となった。

▼5層の天守
ㅤ真田氏初代城主となった信之は城の整備・拡張に着手した。97年に関東では江戸城以外に唯一と言われる5層の天守を建てたとされる。
なぜ、これほど壮大な城を築くことができたのか。はっきりとした理由は分かっていない。沼田市教育部長で群馬歴史散歩の会利根沼田支部事務局長を務める高山正さん(59)は「3万石ほどの領主がこの規模を完成させるには何か財源の裏付けがあるはずだ」とし、真田氏時代に利根沼田地域で鉱山開発が進められたことに着目している。
ㅤ1600年、関ケ原の戦いに際し、真田は一族が分かれて参戦する。東軍に信之、西軍には昌幸・信繁が付いた。この決定の後、昌幸は「孫の顔が見たい」と沼田城に立ち寄ったという。留守を預かっていた信之の妻、小松姫は「たとえ、父といっても今は敵味方」と城に入れなかった。入城は拒んだものの、近くの正覚寺で休息していた昌幸のもとを訪れて孫の顔を見せたと言われている。

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