《真田の城 今昔》岩櫃(中) 姿を消した城下町 

上毛新聞
2016年8月10日

ㅤ岩櫃山の東側、現在は東京電力の調整池となっている場所に「これより先 平川戸城下町地区」の看板がある。この調整池付近の約6ヘクタールは岩櫃城の城下町だったとされ、「平川戸」には60~70の家屋が軒を連ねたという。

▼鉄砲職人も
ㅤ住んでいたのは、近隣から移った職人や商人のほか、真田氏の拠点・信州から来た人だったと言われている。吾妻川の対岸にある「川戸地区」の住人が移ったという見方もある。「平川戸」とは「山の上の平地に切り開いた川戸地区」と推定されるからだ。
ㅤ国友姓を持つ鉄砲職人がいたとも考えられている。大阪・堺と並び称される鉄砲の産地、滋賀県長浜市の国友地区に起源を持つとされ、最新の軍事技術を重視した真田氏、その後ろ盾だった武田氏が呼び寄せたのではないかと考えられている。
ㅤ付近には「北の木戸跡」「東の木戸跡」「バンショウ坂」のほか、出丸とされる「天狗の丸」や岩櫃神社、薬研(やげん)堀などがあり、人々の生活と合戦の跡が混在するエリアとなっている。岩櫃城は、この城下町を拠点に、136ヘクタールの広大な規模だったという。沼田城と上田城の中継地で、吾妻の拠点としての機能が必要だったと考えられるが、なぜこれほどの大きさとなったのか。
ㅤ真田氏と岩櫃城に関するイベントを開催する、地元あざみの会の根津光儀さん(63)と山崎公一会長(59)は「(上州に進出した)武田氏は北条氏や上杉氏に対抗しなければならず、岩櫃城は重要な拠点だった。城の拡大や維持には武田氏の力が大きかったのではないか」とみる。

▼一国一城令
ㅤただ、これだけの規模の城を維持するには莫大(ばくだい)な費用がかかったとみられている。沼田と上田、上信二国にある“本拠”を充実させる必要があり、真田氏に十分な余裕はなかったとみる専門家もいる。一族が敵味方に分かれ戦った関ケ原の合戦を経て戦乱の世が治まると、堅城として知られた岩櫃をめぐる状況も変わってきた。
ㅤ真田氏が拠点化してから半世紀。岩櫃城は1615年の一国一城令により、取り壊されたという。広大な町が造られる計画もあったが、時代とともに役割が変化していったとの指摘もある。これまでの発掘調査で、本丸から600メートルほど離れた場所で堀が人工的に埋められた跡が確認されている。研究が進み、往時の様子がより詳しく解明されることが期待されている。
ㅤ職人や商人が集まった町並みは、信繁(幸村)の兄、信之が現在の原町地区に移転、岩櫃の城下町は姿を消した。しかし、このときに信之が行った町割りが同地区の基礎となり、400年たった現在も真田氏が整備した当時の面影を残している。

【写真】平川戸城下町地区について説明する根津さん(右)と山崎会長